中山福堂 ちゅうざんふくどう Zhōngshān fú táng

 生きる ただ生きる

命はひとつ 人生は1回 だから 命を捨てないようにネ

あわてると つい フラフラと 御国のためなのと 言われるとネ

青くなって しりごみなさい にげなさい かくれなさい

 

御国は俺達 死んだとて ずっと後まで 残りますよネ

失礼しましたで 終わるだけ 命の スペアは ありませんヨ

青くなって しりごみなさい にげなさい かくれなさい

 

 『教訓Ⅰ』 加川良   1970年8月8日

 

現実の世界は容赦ない。弱ければ迫害される。

平等は言葉の上での理想だが、対等に接してくれる人は多くはない

生きることは厄介だ。しかし、同じ思いを持つ人が隣にいれば、共に前へ進む道ができる。

「桃栗三年柿八年」   1214

本来の意味は扠置くが、人が発起して変わるには先ず三年、次に大きく変わるには八年かかるという意味では至極的確ではないか。つまり人が自己変革を始めても一朝一夕に成せるものではなく、毎日の意識と行動の積み重ねによって、先ずは習慣に成り、さらに続けるうちに精神にまで達するには相当の時間を要するということだ。この諺はさらに続けて「梅は酸いとて十三年、柚子の大馬鹿十八年、銀杏の気違い三十年」というのもあるそうだ。ちなみに「石の上にも三年」や「三つ子の魂百まで」で使われる「三年」というのも人が変化し一定の形が出来上がるまでの時間という点で共通している。

 

死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

 

実事求是

実践は真理を検証する唯一の基準である

 

一つ目は 何しろ生きていくこと

二つは 感じて生きていくこと

三つは 考えて生きていくこと

自分の頭で考えて 己の進むべき道を 至誠を以て ただ正直に生き抜くだけだ

10815

他者に差別なし 自他に区別なし 精神に格別なし   1214

環境は一般に自他を区別した客観的実在として捉えているが、如何なる場合も自他は区別できるであろうか。他を意識することは区別なのかそれとも差別なのか。意識は自覚でもあり、行動は自覚から起き、習慣は判然とはしないが認識はできる。しかし精神となると普段は意識も自覚もしていないし、改まって意識し自覚しようとしても核心に迫ろうとすればするほど掴みどころが定まらず逃げていくようである。まるで不確定性原理の如くだ。したがって現実が改革された後からしか精神は確かめようがないのかもしれない。

 

楽しければいいじゃない   1214

もし人が意識と精神の回路を遮断して本能のみで行動すれば人間では無くなる。

好きこそ物の上手なれ

強い精神を養うためには苦しく辛いことに耐え忍ぶような修練が必要であるとは限らない。

五十にして天命を知る

極限状況において決断を迫られ判断材料が整わず補填される見込みもなければ、最後の最後で縋るしかないものは結局祈祷か占いとなる。畢竟政治とは究極において卑弥呼の時代と変わらない。 

 

『三始   1014

教育はすべてに優先する ~大学・中国・東京~

・地域や社会や世界の変化は教育から始まる

・主張や競争や秩序の変化は経済から始まる

・スタイルやファッションやデザインの変化は文化から始まる

 

『三該』   1014

・人は学問を怠ることなく正直であらねばならない。

・政治は権力を私物化してはならず公正であらねばならない。

・国家は個人の自己実現の自由を保障するために至誠であらねばならない。

 

『三幹』   1114

垃圾を捨てる (自分の中=脳にあるゴミ)

面倒から逃げない (怠け心に鞭を打つ)

まことことばを唱える (心を正直にする)

 

すべては偶然 すべては必然

 

堂訓   101214

 

一.温故知新

一.天下為公

一.実事求是

 ・独立不羈の精神を養い、有言実行を以て、自己実現を成す。

 ・生命の尊厳を自覚し、真理に照らして、利己を排す。

 ・広く世界を考究し、自他差別なく、意思調和を尽くす。

※ 志の位置 公私の縦軸、王覇の横軸

 

堂約   20514

 

三宝堂約(三方堂約)…堂人3名による盟約。各々の志を書面に認(したた)めて誓い合う。

堂人自主

全てにおいて 自分がすべきことは 自分で決めて実行する

堂人自立

あらゆる事柄は 共助共済により 対等互恵を保つ (セカンドセーフティネット)

堂人語録

自分が好きな言葉を 三十 求めて 集めて 咀嚼して血肉とする それが出来たら 

次は言葉を三百に さらに三千にも成って ついには自己実現に近づく

堂主 黄純